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昨日は長崎原爆の日でした。この日が来ると義父の話を思い出します。
こんにちは。
浜松市佐久間町の理容師 乗本和男です。
8月9日、この日が来ると嫁さんのお父さんを思い出します。義父は、長崎県長崎市の生まれで、中学生の時に被曝をしたんです。一瞬の出来事で、何がなんだか分からないくらいの速さで、すべてのものを失ったんですよね。その現状を聞くと、辛く悲しいことが多く、そんな話を嫁さんの実家に行った時に、お酒を飲み交わしながらよく話してくれたんです。
嫁さんの実家に行くと、必ず義父とは酒を飲み交わしてました。長崎の方言が強い義父は、口が重い方で、お酒が効いて来ると少しづつ話をしてくれたんです。義父が中学生の時でした。友達の女の子と一緒に話をしてると、空襲警報が鳴りだし、義父と女の子は近くの防空壕に避難したみたいんです。そこには他の人の姿はなく2人きりだったみたいんですよね。
そしてその時に原子力爆弾が長崎に落とされたんです。爆破から少し時間が経ち、空襲警報が鳴り止んでから防空壕から出てみると、そこは今までと違った、全く何もない焼け野原になっていたみたいなんです。両親と弟がいる自宅に跳んで帰ると、家は何もなくなっていて、いるはずの家族がいなかったんです。それでもと近所を探すと、竹藪の中に弟を抱いた母親が横になっていました。父親は、被曝して姿形もなくなってしまっていたんです。
(こちらからお借りしました)←
そして弟も数分後にはなくなってしまい、母親の外見は何も変わっていなかったけど、内臓が焼けただれていて、まずは親戚に家に行こうと、一山超えた親戚の叔父の家にリヤカーに母親を乗せて向かいました。その途中に見た景色は信じられないほど、凄まじい光景だったみたいです。川には喉の渇いた被爆者(みんな内臓が焼けただれているんです)が押し寄せて、川の中でみんななくなっていたみたいです。
お腹が空いたので、学校の池で泳ぐ鯉を生きたまま丸かじりしながら、飢えと戦い被爆した街を通り、山を越える途中にリヤカーに乗った母親は息絶えてしまいました。山の中腹に穴を掘って埋めたんですよね。そのお墓の場所に後から道ができて、義父が呼ばれてお墓を確認してきたみたいです。中学生にとって、とてつも辛く悲しかったでしょうね。
そんな話を盆休みに行くと、よく話してくれたんです。こんなこともあって8月9日の長崎原爆の日が来ると、いつも思い出すんですよね。半紙を聞いていただけで原爆の悲惨さ、戦争の悲惨さが、頭の中に浮かんできました。もう戦争話やってはいけないし、核兵器も持ってはいけないなって感じました。日本の平和が1番です。
この記事の投稿者
乗本和男