浜松市 佐久間町 浦川のお城の秘密を紐解きます。

こんにちは。

浜松市佐久間町の理容師 乗本和男です。

お客さんの中に地元 浦川の歴史を研究している、伊東さんという歴史研究家の方がみえるんです。学校の先生を退職されてから、ずっと浦川の歴史と最近では佐久間町の歴史も調べているんですよね。そんな伊藤さんは、今度 地元 浦川ふれあいセンターで、浦川の歴史の勉強会をやることになったんです。

生憎仕事でいけませんが、ボクが色々とヘアーカットをしながら聴くものだから、その時に使う資料を持って来てくれたんですよね。なかなか古文書が少なく、大正時代に起きた、町区(浦川中心地区)の大火で、書類が焼けたこともあり、大変な思いで資料を集めたと思います。

これから少しづつですが、浦川の歴史を伊東さんが作った書類を見ながら、紐解いていきたいです。
ボクが1番興味があったのが浦川の城(じょう)のことなんです。なぜかと言いますと、ボクが小さい時から町の高い丘の上に、城と言われている今では墓地になってますが場所があるんです。今でもお墓参りに行くのですが、この城に関して色々な憶測の話が飛び交っているんです。

ボクが知っている話の1つに「実は城(しろ)ではない」という説です。高い丘にあるためにお城のようにみえるけど、実はただの丘ではないかってことなんですよね。さっき言ったように貴重な書類が大火で焼かれてしまっているのでしょうがないことなんです。でも中にはお城だったという人の声も多くあるんですよね。そこで伊藤さんにもらった資料を見てみたんです。

浦川には日名地さんという方がいて、その方が元々の浦川の名主だったんです。そして今川の家来として浦川の地を長い間、名前を変えながら治めていたんですよね。その方が住んでいた砦が今の城(じょう)といわれる墓地にあったんです。これは日名地家代々の墓石と一緒に置かれた石碑には「日名地城」と刻まれているんですよね。

「ただ時の政権と関わりを持って生きていかなければならない、在地の領主層達にとって自ら歴史の多くを語ることは少なく、常に自家だけに留めて置くという閉鎖性が、砦の伝承を希薄にしていったのではないだろうか。」
平賀孝晴さんの文

戦国時代というのでしょうか、大きな大名の顔色を伺いながら生きて来たので、ここが日名地城とは大きな声で言わず、小さく媚びそに生きて来たんですね。なんとなく小さな村の領主の宿命を見た感じがしました。ただ浦川にお城があったのは確かです。ですからあの場所はお城跡だから城(じょう)と呼ばれていたのが正解でした。

まだまだある浦川の歴史、これから少しづつブログに書いていきたいなって思います。1

 この記事の投稿者

乗本和男

浜松市の山奥にある佐久間町というところでフィフティーズな床屋 「ヘアーサロンノリモト」を営んでいます。フィフティーズ・ロカビリーが大好きで自然に囲まれながらロックな毎日を過ごしています。町の人に喜んでもらえる床屋を目指しています!
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 0 follow us in feedly

ページ最上部へ