佐久間町 浦川の歴史を知ると、山の中の小都と言われた訳がわかる。

こんにちは。

浜松市佐久間町の理容師 乗本和男です。

元々は、ボクが住む浦川地区は、浦川(うらかわ)という地名はではなく、本当は裏鹿(うらが)というのが本当みたいです。説によると、天竜川の裏側というところから来てるんじゃないかってことです。それを浦川(うらがわ)に直し、国鉄の浦川駅ができた時に、浦川(うらがわ)ではよろしくないということで、浦川(うらかわ)にしたみたいなんですよね。そんな面白い話がいっぱいある浦川の里の、賑やかった時代のことを少し書かせてもらいます。

お年寄りに浦川のことを聞きくと「昔の浦川は、朝から芸者の三味線が響きわたる、賑やかい町だったんだよ」という話をよく聞きます。材木が売れた頃の浦川は、材木を売り買いする商人や、お客で賑やかでした。地元の財産家は、山の木の値段も高く、少し売るだけでも多くの富を得ることができたんです。そんな材木の取引の場所となった浦川には、料理宿が何件もあり、朝から三味線の音が鳴り響きお祭り騒ぎの続く町でした。

現在 70代後半のお客さんに聞いても、中学生の時、土曜日の昼間なんか帰ってくると、そこらべったりにあった料理宿で三味線の音が鳴り、芸者さんが踊る姿を見たことがあると言ってました。でも実はその前の戦前の時も賑やかく小都と呼ばれていたんです。そんな材木の町で賑やかった浦川ですが、それ以外にも映画館やビリヤード場、昭和の初期にはまだ珍しかった喫茶店がありました。

戦前・前後、やはり山奥の町は木材に頼っている部分が多かったです。それが無くなると、どしても人が集まることが少なくなり、だんだんと賑やかさもなくなってきたんです。でも浦川は人が集まる町。元々から住んでいる人よりも、よそから引っ越してきた人が多いんですよね。商売をやりたい人が町に集まり賑やかくして行ったんです。

ボクが小学校の頃は三味線の音は聞こえませんでしたが、その代わりボクの家のまえに「バーウラカワ 」という女の人が10人ぐらいいるバーがありました。クリスマスになると生クリームケーキをもらいに行ったことを覚えています。まだ自宅ではバターケーキが主流でしたから、かなり高価なケーキだったんです。美味しかったー!

本当に賑やかな町でした。今は静か過ぎて信じられないけど、山奥なのになんでも揃っていた、ちょっとした小都の様な町だったんです。そんな懐かしい浦川の歴史もこれから伝えていきたいなって思います。

 

 

 

 この記事の投稿者

乗本和男

浜松市の山奥にある佐久間町というところでフィフティーズな床屋 「ヘアーサロンノリモト」を営んでいます。フィフティーズ・ロカビリーが大好きで自然に囲まれながらロックな毎日を過ごしています。町の人に喜んでもらえる床屋を目指しています!
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