今日は絶対に忘れてほしくない、長崎原爆投下の日です。

こんにちは。

浜松市佐久間町の床屋 乗本和男です。 

僕がなぜ今日、長崎原爆投下のことをブログに書こうと考えたのか。それは嫁さんのお父さんが長崎の出身で被曝者だからです。嫁さんのお父さんが元気な頃には、実家に帰ると、着いた瞬間から、2人でお酒を飲み始めたものでした。お酒が効いてくると、ボソボソってお父さんが、昔の話しをし始めるんです。

昭和4年生まれのお父さんは、長崎原爆投下の時には中学生でした。お昼近くに友達と遊んでいると、急に防空警報が鳴ったので、急いで近くの防空壕に友達と逃げ込んだんです。そしたら数分後に恐ろしい爆音と暴風が起こり、何がお起こったのか中にいた2人には分からなったみたいなんですよね。そして静まりかえった頃に、防空豪から出てきたら、長崎の街が消えてしまっていたんです。

ビックリして家に帰ると、家は跡形もなくなり、周りには誰もいなかったもたいんです。家にいた父親と兄弟は形がなくなり、それでもと母親を探しにいったら、少し離れた畑の横にある竹藪に、弟と一緒に横になっていたんですよね。弟とは亡くなり母親は外見こそ普通でしたが、被曝していて内臓が焼けただれていたらしく、水をやたらと飲みたがったらしいんです。父親もいなくなり周りに知り合いもいなくなってしまった嫁さんのお父さんは、弟を深く穴を掘り野良犬に食べられないように埋め、リヤカーに母親を乗せて、ひと山超えて何十キロも離れた親戚の家に向かったんです。

(こちらからお借りしました)

その道中の光景は凄かったみたいです。焼けただれた人々が、呻き声をあげながら水を求めて、川に行き、そこで力尽きてしまい、川を見るとそんな人で埋め尽くされたみたいなんです。「助けて」と血だらけで寄って来る人を、何も出来ないし母親を連れていかなくては行けないから、辛かったけど無視して先を急いだみたいです。道中は悲惨な光景だらけでした。体の一部があちらこちらに転がっていて、言葉では言い表せないくらいだったようです。

こちらからお借りしました)

辛く長い道中です。お腹が減るんですよね。道中にあった池にいた鯉を生きたまま丸かじりして食べました。食べるものなど何もなく口に入るものはなんでも食べたみたいです。そんな道中で、お母さんは力つき亡くなったんです。丁度それが山を登る最中の道で、そこに母親を葬ったんですよね。
結局、賑やかかった家族は嫁さんのお父さんと戦争に行っていたお兄さんの2人きりになったんです。

こちらからお借りしました)

それから何十年かして母親を葬った場所に新しく道ができることになり、開発中に嫁さんのお父さんが作った墓標と遺体が出てきて、迎えに行ってきたらしいです。
本当はもっと生々しい話を色々と聞きましたが、あまり詳しくはかけないことも多いので、このくらいにさせていただきました。本当に戦争の悲惨んさは、戦地に行ったおじいちゃんから聞き、原爆のリアルな体験は嫁さんのお父さんから聞き、戦争は絶対にやっては行けないってことを感じました。
長崎原爆投下の日、これからも絶対に忘れては行けない日にしてほしいです。

 

 

 この記事の投稿者

乗本和男

浜松市の山奥にある佐久間町というところでフィフティーズな床屋 「ヘアーサロンノリモト」を営んでいます。フィフティーズ・ロカビリーが大好きで自然に囲まれながらロックな毎日を過ごしています。町の人に喜んでもらえる床屋を目指しています!
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 0 follow us in feedly

ページ最上部へ